屠殺 <後>


屠殺には二種類の屠殺がある。
殺す対象を滅ぼすための屠殺と、
殺す対象を維持するための屠殺だ。
この水槽に5匹は多すぎる。
3匹でも多いくらいだ。
そこで1匹殺す。

先日、滅ぼすための屠殺をした。
次のアトリエは仕事に集中することに特化した、高層マンションの一室だ。
転居を前に、庭飼いの家禽は一羽たりとも連れていけない。
庭、これも実験だった。屋上階の渡り廊下に温室を設えて、
防根シートを敷設した上に軽い土を敷き極小の閉鎖植物相を作れば、
ボタンクイールのような小型の鳥ならば放てるかもしれない。
ボタンクイールは名前の通り、ボタンほどの直径しかない小さな卵を産む地上性の鳥だ。
ウズラとはいうものの家畜化された品種でなく、
愛らしい容姿からペットとして少数飼育されるに過ぎない。
とにかく体格が小さく、10平米もないミニチュアの自然界で、
鶏の代用に放牧されるには打って付けだったわけだ。
実験は成功だった。ボタンクイールは安定して孵化し、
先進国の首都都心のビルの屋上の、人工の草地で健やかに成長した。
自然発生した雑草や昆虫、ミミズを滅ぼさない程度に啄み、足りなければ親鳥を呼ぶ声で鳴いて要求した。
そんなときは雑穀や、植物性の食品に限っては人間のものを少し分けてやることもあった。
観察の難しいとされる砂浴び、交尾、産卵、自然抱卵、自然孵化に始まり、
原生地の東南アジアですら渡り鳥であり、越冬が不可能とされる同種が越冬を達成するのを見届け、
本種では見られないとされる水浴を複数回、再現性を持って観察することにまで成功した。
植物と土壌生物がクイールの排泄物や抜けた羽根を浄化しながら繁殖し、増えた分を再びクイールが捕食し、
3年近くも土を取り替えることなく環境は維持された。
この極小の生態系には都会の野生生物がどこからともなく集まり、雀や鈴虫、ヤモリや蝶の姿もあった。
ボタンクイールは大きさの割に気性が荒く、遠方にカラスや鳩の会話を聴けば雄叫びで縄張りを主張し、
ゴキブリや小さなクマネズミが入り込めば団結して戦い、見事に追い返していた。
ボタンクイールが食い尽くさずに共生できる植物の種類も特定でき、
クイールの土を掘る狩りや営巣に悪影響を受けにくい地形の傾向も把握できた。
実験は成功だった。山林に広い土地を用意して同じことをやれば、
導入コストや管理コストをほとんど掛けずに卵と食肉と数種類の食用ハーブが得られるし、
得られたノウハウを応用してもっと大型の鳥で試すのもいいだろう。
そしていかなる未来の為にも、実験の終わったここは畳まなければならない。
ボタンクイールの高音の雄叫びは鋭く、どんなに厚い壁の高層マンションでも室内飼育できるものではない。
また、本来空へ羽ばたき海を渡る彼らの精神には中庭さえ狭すぎるくらいで、
小さなケージに入れられようものなら、仲間同士で一日中殺し合うことも珍しくはない。
これらを理由に多くの飼い主から厄介者として飼育を放棄され、捨てられ、里子に出回っている。
逆に言えば、小さく愛らしい外見と繁殖の容易さから気軽に飼われ捨てられ続ける種族であり、
知識と経験さえあれば、必要な時に少ないコストで手に入る種である。
市場価値が低い上で用済みになる、あるいは放置すれば不利益を被るとき、その個体や集団を殺す。
これが滅ぼすための屠殺である。害虫、害鳥、害獣駆除などもこれに分類される。
地球の生態系にとって無意味な生物種など本当はいないと分かりきっていて、
それでも些少な看過しがたい利害が生ずるために、その損得を天秤に掛けて殺すのだ。
しかし、過密が予想されるサラマンダーを間引きすることは間違いなく「維持するための屠殺」だろうか?
本当は5匹みんな仲良く、次のアトリエに一緒に旅立ってもいいのではないか?
そもそもクイールを殺すのも、将来的により多くの個体数を安定して維持繁栄させる目的があるなら、
種の繁栄と安定のための「維持する屠殺」であり、サラマンダーを間引くことと差異は無いのではないか?
実のところ、こんな定義や分類は無意味であり、不適切である。
殺して減らすよりも将来的に多く、あるいは長く繁殖させようということは何の免罪符にもならない。
それは、未来においてはるかに多くその種を殺し続けることをも意味するからだ。
まして殺さなければ、増えすぎた種によって、別の多くの何かが殺されることになる。
それはより人間に近い種かもしれないし、人間かもしれないし、増えすぎた種そのものかもしれない。

現代の人間はその生息域において、遭遇し得るほぼ全ての他種生物に対して捕食者の側に立つ。
生態系に於ける用語では調整者といわれるこうした種は、成熟した生態系で後発的に発生し、
自らが人生で出会う被捕食者達を最適数殺し続けることで、自身と自身の生存基盤となる生態系を調整維持して存続する。
そして調整者の種の社会性が高度に発達していけば、個々の個体はあることに気付かず生きられるようになる。
すなわち、私達が生きるということは、己を存在させてくれる全ての先人達を、
学び、愛し、助け、半身にも等しい連れ添いとなった挙げ句、引き裂いて殺すことの繰り返しに他ならないということを。

私は奮発して新調した砥ぎ石に、水で濡れたナイフの切っ先を滑らせながら、その後の手順を推敲していた。
植物も動物も無機物も、区別せず、たった一本持っているこのナイフで斬ることにしていた。
柔らかいシャワーを当てて鉄と錆でできた灰色の液体を洗い流すと、長くバスタブに寄りかかっていた腰骨が痛んだ。
今回は包丁を使わないことにしよう。
私は家畜を殺す時、大概は首を寸断して絶命させてきた。
西洋の暗黒時代、断頭台に掛けられた多くの人々で実験された記録によれば、
人は首を切断されてから長くて30秒、短ければ数秒で意識を失うと推定できる。
それは脳への血液と酸素の供給停止が決め手となり、眼球運動の停止によって判定される。
鳥の場合も、脳を脊椎と心臓から分離すれば、平衡感覚を失った胴体がどれほど暴れ回ろうと、
頭部は短時間でそっと眼輪筋の運動を止め、目を薄く閉じて急性の眠りに沈んでいく。
その僅かな間だけ、ナイフを持っていない方の手を静かに首にかぶせておいてやればいい。
突如視界を覆った暗闇に判断材料を失って、状況を逡巡する内に眠ってくれたらいい。
しかしこの手が確実に通用するのは、せいぜい鳥類までだ。
完全水棲の両生類である彼らにはそもそも眼球運動がなく、魚類のように透明なはめ殺しの硬質ゴーグルと、
その奥に秘めた水晶体の微小な前後移動のみによって視覚を完結させている。
緩慢な眼球運動は生死の判定に使えるような劇的なものではなく、
血液や酸素の供給量、経路も異なる無表情な彼らに、断首は予測を上回る苦痛を与えかねない。
以前、秋口に蛇の首を落として殺した時がそうだった。
分断された首と胴のいずれもが活発に動き続け、生気に満ちたままで、
私は飛びかかる牙と巻きつく尾を避けながらナイフの柄で獲物の頭蓋を徹底的に潰す羽目になった。
胴体は皮を剥ぎ内蔵を裂いてもうねり続け、調理すら一苦労だった。
分からないことを分からないまま漫然と行うのは恐ろしいことだ。
だからこそ、最も重要な点は対象を学ぶことにある。そうすれば、少しでも苦しみを和らげる努力ができる。
メキシコサラマンダー、アホロートル、彼らは水の犬、水の妖精、水の子供などの別名を持ち、
アステカ神話ではショロトル神が太陽を恐れて水に逃げ込んだ化身であるといわれている。
未分化細胞を多く持つ幼形成熟種で、高い学習能力と環境への柔軟な適応力、
そして逃げ足に富んだメキシコサラマンダーを殺めるにあたっては、
強い意志と明確な手順を持って行わなければならない。
まず茹でた麺類に使う水切り網を水槽の水面に遊ばせる。
サラマンダー達が興味を示す。
ルサールカはそっと距離をおく。ドラゴンが爪を砂に立てて警戒する。
ティースプーンが顔を上げてこちらを見つめる。
クダサイが見当はずれな位置の水面に浮上してくる。
そうしてのち、捕食者でも非捕食者でもないと判断され、おのおの水切り網から視線を外す。
網を水底にゆっくりとおろしていく。網の中に捕らえられたマダラは、
不思議そうに前足で網目を撫でている。その前足が水上にあることに気付く。風に揺れる羽飾りのように鮮やかだった赤い鰓が頭蓋に張りつく。
網は水上にある。水が瞬く間に滴って逃げていく、マダラも水へ追いすがるように激しくはねて網からこぼれようとする。
上から素早くガラスの蓋で閉じる。マダラは驚いて一瞬止まる。マダラは尾に切り傷を負っている。
その隙にステンレスのボールに移す。ボールに移る水面を頼って自ら滑り降りていく。人魂のように。
そこはとても冷たい透明の岩がいくつも浮いた薄オリーブ色の水たまりで、
水底まで高地で育つ果実の香りで満たされている。体に痺れが回るような奇妙な水質をしている。
なにより、心臓が止まりそうに冷たい。四本指の前足、五本指の後ろ足、赤い外鰓が縮んですくむ。
その時、頭上に黒い板が被せられ、完全な暗闇が訪れる。
皮膚を守る粘液は白ワインで溶かし流され、全身と外鰓からアルコールが浸透し、三半規管が異常をきたす。
安住の湖底を探して神経を集中させながら、体を上や下に回転させてみる。
ますます天地は定まらなくなっていく。一度だけ水面に巡り逢い、大きく息を吸い込む。
ワン、と子犬のような声が出る。肺いっぱいに吸い込んだ外気はずっと暖かい。
5分、10分、消灯した部屋で覆い板を取り除くと、
全身に力が入らなくなったマダラが焦点の合わない目でうなだれている。
冷たく萎縮しながらも四肢は弛緩し、手で抱き上げてももうほとんど反応は無い。
タオル越しに抱いて水気をほんの少し切って、揚げ衣の生地が入った器に移す。
少しだけ明るくなったことと、環境が変わったことで、
マダラは多少もがいてみる。もう冷たくはない。しかし白い沼はもがくほど体を覆い、
主たる感覚器官である頭部を含む全身を包んでいく。
ふわりと体が浮かぶ感覚が一瞬あって、むせ返る灼熱の洞穴に落ちる。
沸騰する溶けた油脂が鉄の床の上に薄っすら引かれた終点の水たまりで、感覚が戻りきるより早く意識は遠のいていく。
高熱への反射運動で前後の指先がくるりと内側に握りこまれ、外鰓を通る動脈の血が凝固する。
酸素を求めて口は大きく開く。知覚は反射に追いつけない。こんなに暑く照りつける側が地面であるはずがない。
肉体は故郷を求めて、背を鉄板に、腹を上に翻す。最後の運動が終了する。
しばしば強烈な日差しが威光を示し、太陽神が崇拝された彼らの故郷、
山の頂きの花咲く湖の底の、水草のベッドと小型水棲生物で満ちた、甘やかな泥へ帰ろうとする動作のままで。

<終>

4章 ネズミのディオゲネス