屠殺(前)


屠って殺すと書いて屠殺と読む。
わざわざ、非日常的な文字の非日常な読みが当てられる。
転居を前に、一匹のメキシコサラマンダーを屠って殺した。
彼の名前はマダラ。5匹のサラマンダーの内の1匹だった。
白く美しいアルビノのルサールカ、
最も大きく荘厳なドラゴン、
均整の整ったティースプーン、
人懐っこい小さなクダサイ、
この4匹を屠って殺す気になれなかったので、
マダラに白羽の矢が立った。

彼らは2年前、絵の仕事の資料として観察されるべく、
寝室と作業室の中間に迎えられた。
その頃、彼らにはまだ名前が無かった。
新品の水槽の透き通るような景色に怯え、
ガラス越しの透明な清水を妖精のように飛び回っていた。
妖精を捕まえてしまった、と思ったものだった。
それは半分事実で、彼らは自然界でほとんど絶滅した種の、
その中でも数少ない白色変異種だった。
この種はたまたまこの国に輸入され、飼育下で繁殖したために、
ランチ一食分の現地通貨で取引され、五匹の幼生にしがみつく水草まで一房添えられ、
常温便でこのアトリエへ郵送されてきたのだった。
アトリエの白い壁と床は仕事には便利だが、彼らには眩しすぎたかもしれなかった。
逃げまどって疲れた彼らは、水槽の水質維持装置が発生させる僅かな水流にも逆らえなくなり、
次第に水槽の隅で動かなくなった。
私は心配になり、慌てて黒い絵の具箱をいくつかひっくり返し、
内側をよく洗浄して画鋲で穴を開け、水槽に引っかけた。
それからひと月ほどは、彼らの生育環境を改良するのが日課になった。
狭く低い水場が落ち着くと調べては、アトリエ中のタライや水差しを集め、
夜行性と知っては、窓を暗幕で閉めきって、水槽に日傘を差した。
寝室に置いて、おびえさせないように足音を消して寝起きし、
悲劇的に唯一ちょうどよかった愛用のティーカップとソーサーを、彼らの休み場として水槽に沈めた。
この英国女王に献上されたこしらえの金彩のソーサーを気に入ってくれたのが、
ティースプーンだった。静寂とティータイムを愛する者に悪いものはいないと思った。
また、彼らが私の姿に怯えて餌を食べようとしなかったはじめの一夜、
闇の中で弱った兄弟達の手や足を食らい、翌朝一回り頭骨が大きくなっていたのがドラゴンだった。
初めは獲物を食らう頭が目立って大きくなり、追って全身が成長していった。
彼は常に警戒するよりも観察し、逃げるよりも襲う知性が発育していった。
ある初夏のこと、戯れに中庭で捕まえた緑白色の美しい虫を、隔離したドラゴンの住処に近づけた。
水底から勢いをつけて鰐のように水面から飛び上がった頭から、堅く厚い額に押され鋭い形になった眼が覗いていた。
体長の半分以上もある虫が一瞬で水底に連れ去られ、時間を掛けて飲み込まれていった。
ドラゴンは更に一回り大きくなり、緑白色の犠牲者の名はクサカゲロウと同定された。
小さな中庭ではカゲロウに捕食されなくなったアブラムシが大繁殖して、
楽しみにしていたイタリアンパセリやスイートケール、ポーチュラカの葉に穴を穿った。
ドラゴンに四肢を食われたアルビノのルサールカは、気配を消して生きるようになった。
ルサールカはスラヴ神話に語られる名で、白い薄布をまとう水辺の幽霊だ。
新鮮なアカムシを奪い合ったりするようなことはせず、いつも物陰に隠れ、
他の幼生が見つけられない岩場の陰に沈んだ餌を、独自に発達した嗅覚で捉えて食べていた。
いつも俯いて暗い水底を音もなく彷徨う姿は、まるで水子か迷子の幽霊のようだった。
だから幼い頃のルサールカの写真は、遠巻きにぼんやりと写ったものしかない。
私にはルサールカが生と死の境に存在しているように思われた。
いつでも尾を上げて、底に底に向かって泳ぐ姿が人魂のようだった。
しかし、孤独と恐れがルサールカに、ドラゴンとは異なった強かさを育んでいった。
隠れて観察をつづけていると、いつの間にか陽の光の下にルサールカが顔を見せるようになった。
失われた四肢は完全に再生し、それからは広漠の水槽で誰よりも多く餌を獲ることさえあった。
クダサイとマダラは、最後に名前を与えられた。
幼生達が安らぐように黒い画材箱で作った小さな槽に移したころ、
2匹のサラマンダーに黒斑模様の発生が見られた。
適応力豊かな本種は、環境の変化に応じて皮膚の色を変化させるといわれている。
この自前の迷彩は、弱く臆病な妖精の時期にも、強く老獪な狩人の時期にも、
彼らの人生の助けになる。
当初、この2匹の「まだらの双子」に有意な差は見られなかったが、
のちに1匹の成長が著しく遅れてきていた。
嗅覚、体格、運動神経などが他の個体に劣り、餌を取りはぐれているようだった。
いつも空腹を抱えることになったこの個体は、水草などによじ登り、
少しでも高い場所から、餌と関係深い私の姿を探し続けるようになった。
水槽を通り過ぎるたびに目が合い、作業机から振り向けばこの個体も振り向き、
近づくと水面付近に浮かんできて、指から餌が溢れ落ちるのをじっと待った。
私は根負けして、この狩りの下手くそな個体を贔屓しはじめた。
イルカの芸の訓練でもするように、タイミングを合わせて目の前に餌をやった。
この痩せっぽっちの狩りが成功するまで何度も給餌を繰り返し、
一回で上手く餌を捕らえたときには何やら嬉しくなって、良し、すごいぞ、やった、などと口走った。
この奇妙な給餌風景を横で見ていた来客に、個体の名前を尋ねられたことがあった。
そこで、皮肉と親愛と照れの情が綯い交ぜになって、こいつは「クダサイ」ですと答えた。
そうして残った双子の片割れが、マダラというわけだ。
水面付近を好むクダサイの模様はソバカスのように微細に散逸し、
逆にマダラの模様は水底に敷かれた大粒の黒砂利そっくりになっていった。
マダラはなんでもできる個体だった。
普段はティースプーンのように中庸で、餌の奪い合いならドラゴンに次いで力強く、
ルサールカほどではないが水底を要領よく探索でき、
クダサイが騒げば首をもたげ、人や餌の気配を見渡しもした。
ドラゴンの次に大きいのはマダラだった。
そして大きな体表に、私にとってなんとなく醜いマダラ模様が目立ち、
その割に私と親しい思い出が少ないのがマダラだった。
下らない理由だが、もっと上等な選別する理由は遂に思い付かず、
サイコロやくじで殺す相手を決めるのも、何か重大な責任を放棄するようでためらわれた。
誰も殺さないというのはもっといけなかった。
水槽の大きさは、自然に死んで数が減ることを想定したもので、
成体が5匹暮らすにはおいおい狭くなっていくし、
何より元々仕事の資料として用立てたものだからだ。
描かなければいけない絵の中に、サラマンダーの断面図と解剖図があった。
それだけなら兎も角、決定的なのはSFの挿絵の案件だった。
養殖のメキシコサラマンダーが食用として普及し、気軽に冷凍肉がファストフード店で供される、
そんな絵図の試案を描く見積もりがあった。
とにかく、成体になったら食肉にする予定で飼育を始めたということだ。
もし飼育と調理が容易く美味であれば、いつか広い土地を買ったとき、
自然下に近い環境の養殖池を作って本格的に繁殖させることを検討しようかとも考えていた。
人が管理下に置く生態系の構成要素となる生物は、
必要に応じて間引きする時、気持よく食べられるほうが良いに決まっていた。
なに、家庭菜園の延長で、魚か、せいぜい蛙の仲間だろう。
家禽や家畜などを捌くよりも易い。と、過去の私は楽観していた。
恨むなら過去の私だ。補償を願うなら、身軽になる未来の私だ。
先延ばしにできない現在が近付いていた。
屠って殺すと書いて屠殺と読む。
わざわざ、非日常的な文字の非日常な読みが当てられる。

3章 屠殺(後)