2の鉱夫 4<ver1.4>


 友久146年 2月22日 24時 00分
 上記日時までに有効な再申請が提出されない場合、特約不履行により、約款に基づき養子縁組契約の解消が処理されます。

がくんと、頭から手足の指まで地に引っぱられたような感覚があった。
姿勢が低くなって、天井灯が鏡面状態のアクリルを照らし付けた。
振り返るとエレベーターの扉が開き、何か制服を着た男が入ってくるところだった。
はじめから猫背だったようなふりで、息を止めて、男と入れ違いにエレベーターを出た。
肺を圧迫する姿勢を解き、呼吸を再開すると、目の前は見知らぬ風景だった。動揺して、地下1階で降りてしまったことに気付いた。
背中の閉ざされた分厚い自動扉の奥から、昇降機の作動音がウンウンと響いて遠のいた。
それから、携帯端末に表示された一文をもう一度読みなおした。

元号、年月日表記、二十四時制、かびの生えんばかりの書式が用いられた文書は、
かえって重要性が高く、国の法律に深く関わる内容であることを証明するように思われた。
歴史物のゲームの画面端に表示されたインターフェースか、法律屋のワークデスクか、
著作権の失効した古典文学を乱読している時にくらいしかお目に掛かることのない書式だった。
それで、俺にはまず正確に理解できなかった。動悸の収まらないまま、翻訳プログラムで画面上の文を十二時制に変換表示した。
するとようやく、24時というのが22日の日付の終わりピッタリを意味しており、
今から20時間と数十分後のことを表しているのだと理解できた。
行頭の全角スペースの意味は分からない。二つの行頭の不揃いさが不安を掻き立てる。
こんな風に精神に冷静さを欠いて、それを助ける教養も足りないから、てひどい運命に突きあたるのだ。
爽やかな運動と冷水の余韻は消し飛んで、代わりに肺から喉へかけて真空を含んだ気分になった。
わずかな刺激に炸裂するその瞬間を待っている虚無が、自分の本性であるような感じがした。

エレベーターを呼び戻さなければ、と思った。
しかしどちらへ?上の階に行っても相談窓口は閉じているし、下の部屋に戻っても、
眠気を堪らえながら作業を再開して、天涯孤独になる瞬間を居眠りしながら迎えるのが関の山だった。
今、俺には娘がいるのに。
顔も見たことがない娘との思い出のかわりに、これまでの人生で見聞きした、家族愛が主題の物語の感動的なシーンが噴水のようにシナプスを流れた。
これほどの期待感が俺のニューロンに蓄積されていたとは、自分でも知らぬことだった。
無力な欲望が涙となって涙腺から溢れだし、脱力するに任せて背をエレベーターの扉にもたれ、腰を地べたにひきずって落とした。
原生林の獣道のようなこの階の通廊は、低い姿勢から眺めるとよりうっそうと電線にまみれ、
植物の青い香りに取ってかわり、電気焼けした埃の匂いが立ち込めていた。
現実味のない風景だった。不意に扉が開いて、体が仰向けに倒れた。
音もなく出てきたのは一機の陸配ドローンだった。
整備された床の上では、キャタピラの回転音は意外なほど静かだった。
それが段々とケーブルがひしめく通廊に分け入るにつれ、よく知った、採掘中に聞く音に変化した。
上体を起こしてみると、ドローンが通廊の最奥の暗がりに姿を消すのを見た。
そのドローンに、確かにツルハシ接続アタッチメントが付いていた気がした。
それを追って、死神に誘われるように、人間の巣の最終植物相、無機物の森へ足を踏み入れた。

単純演算作業用の廉価なノイマン型コンピューター群が、
目を瞑った巨人が削った黒曜石のような、幾何学的形状のカバーの樹皮をまとって群立していた。
通行者に対してよそよそしいトーテムのようにそっぽを向いたそれらの塔は、先端科学の解説でよく見かける、
未解明のグラフを視覚化するシミュレーターが生成したパターンのように、明瞭でない何らかの法則に沿って配置されていた。
それらの一つ一つが静電気で集め、排気口に凝固させては吹き捨てる埃の塊が、砂粒のように床に堆積していたので、
通廊は歩く度にシャリ、と野外めいた音がした。
埃は嫌いだった。自分の体が起こす微風が埃の砂地を巻き上げないように、
ケーブルの隙間から隙間へ、慎重に足を運んだ。
しかしふと前を見ると、足元の強化アクリル…太陽光発電が普及して最も安価になった建材の一つ…越しに設置されたライトが、
通路上を羽虫の柱のように舞う埃を照らしていた。ドローンが、キャタピラがここを通り過ぎたのだ。
呼吸を止めて、シャリ、シャリと音を立て、足早に通廊の奥の暗がりを目指して進んだ。
暗がりにたどり着くと、フロアは行き止まりだった。
脇に非常用の防火扉があり、緊急用通用口のアイコンが埃をかぶって、生物発光する茸のように薄っすら緑色に点灯していた。
非日常を探検しているストイックな心理と日常的な嫌悪感のどちらも感じながら、汚れたアイコンを指の腹で拭った。
返した人差し指から小指の腹に移った埃は、さらさらして茶色がかっていた。土埃だった。
明るくなったアイコンに照らされてみれば、周囲のコンピューターの点灯部分もまた、土埃に覆われていた。
それだから、このあたりは暗がりになっていたのだ。
防火扉の取手を掴んで押すと、扉はギチギチと不穏な音を立てて脈動した。
どきりとして手を離すと、キュキュと何か部品を巻く音が中で唸ってから、鉄塊はゆっくりと横に折りたたまれて道を譲った。
溜め息をつく。電池式の自動開閉ドアだ。
代替エネルギー開発が進み、蓄電池のコストとエネルギー効率が改善されると、防災用品のような日常的に大量の電力を必要としない製品は、
そのほとんどが電池式に置き換わった。
電池の充電や交換が必要になるより、製品が故障したり、用済みになるほうが早いからだ。
しかしこの国の建築関係だけは別だ。旧態依然とした現地企業の利権が絡み、
非常用の防火扉ひとつ取っても、非電化と電化が混在していた。
だが、そんな社会構造の歪さなど問題にはならなくなった。
扉の先は、坑道だった。

<続>