2の鉱夫 3<ver_1.3>


イントロが終わる前にジャックを耳から外した。
足場が無くなるようにホワイトノイズが消え去り、外耳に暗室の静けさが射しこんだ。
24時間回り続けている換気ファンが、金属疲労による故障防止のために、ごくたまに数分停止する。
その数分が折しもその時で、暗室には完全な静寂が訪れていた。
自分の血管を通り過ぎる血の音が、耳の奥でキインと鳴った。
今日の作業は終わりだ。しかし、眠るには頭が冴えていた。
網膜がLED可視光を長時間浴びているせいだった。
初日に安眠に失敗してから、これは宿痾だった。
だから処方は心得ている。「天国」に散歩に行けばいい。
天国とは、このコミュニティビルの4階を指す言葉だ。
直通エレベーターのある地下2階までは遠い。
歩きながら、また思索に耽るとしよう。
なんといっても今日は記念すべき2222年の2月22日なのだから。

人類の文明の灯も及ばぬ地下2階から下は、天国と掛けて地獄と呼ばれている。
迷宮のような連絡通路で同僚に遭遇したら、地獄の苦役を話題にすればまず外れはない。
ポストのダイヤル錠でも解除するように、右にいくつ、左にいくつと進んでいく。
じきに、ひんやりとした空調の空気に乗って機械の動作音が聴こえてくる階段を登ると、
そこが地下2階だ。地下2階と地下1階はマシン向けフロアで、大抵の部屋はテナントのサーバーマシンがぎっしりと建ち並んでいる。
人が出入りすることを想定した動線になっておらず、植物の根のように蔓延ったむき出しのケーブルを傷つける危険から、
事前に登録を申請した整備士以外の通行は禁止されている。
一般人はこの樹海には近寄らず、エレベーターで直接地上と行き来すればいいわけだ。
昔VR旅行で訪れた世界遺産に似た地下2階のエントランス風景を眺めながら、
こうしてエレベーターを待つのもすっかり日課めいてきていた。
コミュニティビルの地下機械フロアは自殺の名所や犯罪者の潜伏地として有名で、
都市伝説と分かっていても、初めて深夜に通ったときは恐ろしかったものだ。
エレベーター扉の表面に表示されていたホラーゲームの広告が消えて全面に「B2F」の字が点灯し、
「2」の真ん中で垂直に割れて左右に開いた。

エレベーターの奥側に嵌めこまれた透明なアクリルに、地下の闇が作用して鏡のように景色を反射する。
薄っすら映った自分の背中で扉が閉じ、エレベーター特有のゴム質な臭いがこもる。
地下1階、1階、2階、暗闇がちらほらと煌めいて、人間の輪郭の内側までも夜景と星空で満たしていく。
この時間のこのエレベーターはあまり邪魔が入らない。
見知らぬ人が間近に立っていると、夜景の鑑賞はやりづらい。そんな時は壁のすみか、監視カメラの辺りか、
目的の階にじりじり変わるフロアランプを見る。
目的地は最上階、4階だ。
この国の建物の上層階は揺れがひどく落ち着かないが、コミュニティビルだけは大丈夫だ。
コミュニティビルは倒れない。
2000年代後半、それまでの数十年に渡る高度経済成長期が無計画に残した建築群は、
その後の政府の慢性的な予算不足からなあなあに放置され続けていた。
築100年近いビルが乱立し、いくつかは文化財として指定されるという冗談のような時代、
月をまたぐ震災による未曾有の大災害が起きた。
地震大国が誇る耐震建築は倒壊を遅らせて避難を促すものでしかなく、
いくつもの都市が戦争の後の焼け野原のようになった。
国策は、体力を失った各都道府県の合併を強く促し、数十あった市町村が遂には9つの都市にまで集合した。
その後に敷設された都市再生計画が、各都市の本庁を中心としたコミュニティビル体制だった。
地図で見て本庁舎を取り囲む東西南北の地区ごとに文庁舎、コミュニティビルが建ち、
更に都市の末端まで、毛細血管のように一回り小さい下級コミュニティビルが行き届く。
本庁はコミュニティビルと、コミュニティビルは下級コミュニティビルと連携し、
平均4階建ての庁舎と防災拠点となる広場やグラウンド、地下階からなるそれぞれのビルには、
地域に必要なテナントが入り、公共施設として機能する。
大抵は1、2階には公民館や行政センター、デイサービスや保育所が入り、
上層階には老人ホームや体育館、防災倉庫あたりが入っている。
俺の目当てはこの体育館だ。
あまり知られていないが、完全にオートメーションされた一部の公共施設は24時間利用できる。
ビルに並ぶ窓の明かりが軒並み消灯している深夜なら、老人連中の医療費削減に用意された豊富なスポーツ設備を、
俺は一人で自由に満喫することができるわけだ。
ここにはVRではない、本物のバスケットコートがあるし、ツブツブとした手触りのボールがあって、
ゴールがある。ここに通っているからには、ゴールの無い人生なんて言わせやしない。
棒高跳びも開放感があっていいし、この清潔な運動場を端から端まで転がるだけでも充実したものだ。
午前2時半から午前3時半頃までの1時間、俺はここで歌ったり、スキップしたり、真ん中に大の字に寝そべったりして過ごす。
そして、誰かが起きてきて教養ある訓練でも始めて、居心地の悪い気分になる前に、余韻を胸に抱いて部屋に戻る。
地域コミュニティビルの中には移民政策の失敗で流入された外資テナントに乗っ取られ、スラムのようになったところもあるというが、
ここは平和なものだ。昼間に出歩いたことは殆ど無いから、俺が何も知らないだけかもしれないが。
何故みんなもっと運動をしないのだろう。プロプレイヤーのように、日に2時間も3時間もやる必要はない。
たったの1時間でも、人生は血の気の通ったものになる。
放射能除去証明シールの付いたウォーターサーバーの水を三杯飲み干し、給水タンクの上に置いた携帯端末を取ると、
重要通知が一件届いていた。
友久146年…これは西暦2222年を意味する。
頻発震災群で天皇が死んだ後、センチメンタルなムードの中で決まった新しい元号がこれだ。
応明、文安、友久の3つの候補から国民投票があって、他の2つと僅かに数百票差で友久に決まった。
こんなに綺麗に票が割れるだなんて有り得るだろうか?
国際社会との友好的発展という、一巡遅れた先進性が込められた解説が付いたが、
要は政府主導の外国人受け入れ政策に対する国民感情への、緊張緩和を狙ったショーだったのだろう。
先代の事故死に不審な点があったため、今の天皇はテロを警戒してこもりがちになっている。
実際、天皇がその身を晒さなければならない公務など、もはや現代には存在しない。
今や天皇は殺されるまで死なないだろうし、生前に退位を迫られることもないだろう。
友久は何年まで続くだろうか?俺は友久200年に立ち会うだろうか?
エレベーターの重力が体にもたれかかり、とりとめもない物思いから覚めて端末の続きを見た。
 友久146年 2月22日 午後12時 00分
 上記日時までに有効な再申請が提出されない場合、特約不履行により、約款に基づき養子縁組契約の解消が処理されます。
人間の輪郭の内側まで満たしていた星々と夜景の灯がおちて、暗闇の壁に隠されて消えていった。

<続>