流れる水

この章は付録である。
五章からなる構成は、後生を連想し後味が悪い。
後生とは仏教由来の語で、日本語で由来のよく分からない二次熟語といえば大抵仏教語である。
後の世に生まれ変わるという意味があり、
後生だからお願いします、といえば、後の世に生まれ変わったら善処します、という意味になる。
私は仏教徒でないし、現代的な解釈における転生思想を好まない。
生きている間に犯した罪、被った不幸の補償を来世へ問うことがまかるなら、
生物は生まれながらに幸、不幸が定められることになる。
しかしそれは、生物の基本的な性質に反している。
生物とは、一義には、死の概念を持つものの総称である。
死の可能性を持たないものは、生物と言いがたい。
では、なぜ死という機能は獲得されたのか?
それは生物の運命が変化するために他ならない。
染色体を分割し、変異を許容し、わざわざ何度も1から生まれて死ぬのは、
新しい人生を送り、違ったものでいられるためだ。
死は自種に対する特定の制御系を持たない改良系であり、
46億年もの豊かな生物史によって証明される、希望と可能性を宿した自浄作用である。
だからこそ生物は、現世において善処しなければならない。
生とは小さな死の集合体であり、人生は自他の細胞の死によって生まれ、自他の細胞の死によって紡がれる。
生きる間に、自身の構成要素は変容し続け、置き換わっている。
どんなに大切な記憶も責任も、時とともに忘れられてしまうことのほうが多い。
生物個体の死は、少なくともひとまとまりの、群体の活動の終わりである。
そこから流出するいかなるタンパク質も、塩分も、水も、
再びどこかで再構成されるとき、過去に所属していた群体の責任を果たすべく、
帳尻合わせに奮起するとは必ずしも期待できない。
死に向かって、善処しなければならない。
必ず尊い死者の犠牲の上に成り立つ生者の人生が、
すべて、酸素を含む流水の組成のように、清らかに流れゆくことを悲願する。
流れる水は腐らない。

<終>

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